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大東亜戦争ニュース・2015/4 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2014・9・29 ユーチューブ 必見 ポツダム宣言を現代語訳してみた |
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「コメント」 ナシ |
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2015・4・29 産経WEST (1/4ページ) 【戦後70年】 「帝国海軍の大艦巨砲主義」に反論…「戦艦大和会」顧問が数々の疑問を解き明かす |
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「記事内容抜粋」 戦艦「大和」はなぜ呉で建造されたのか。 日本海軍は航空戦到来の時代を見誤ったのか。 戦後70年の特別企画として3月下旬、大阪市内で開催された「零戦(れいせん)と戦艦大和講演会」(産経新聞社など主催)。 そこで大和の元乗組員や遺族らでつくる「戦艦大和会」顧問の相原謙次氏(60)がそんな数々の疑問を解き明かした。 《広島・呉で大和、主力艦が造られた理由について、呉の市街地や呉海軍工廠の写真などを紹介しながら、その繁栄や技術開発の歴史を解説》 江戸時代末期に江戸幕府が横須賀、横浜に鉄工所、造船所を造ったが、そこへ簡単にアメリカの黒船が入ってきた。 明治政府では、「横須賀では安心して主力艦の研究開発、建造ができない」と、内海奥深く気候温暖である呉に造船所を置くことを考え始めた。 《日本海軍は、航空戦時代の到来を見誤ったのか。戦艦大和が造られた背景と結集された呉の高い科学技術について》 中略 私に言わせれば「海軍は大鑑巨砲主義」という歴史家については「どこを見とるんや」と思う。 むしろ最初に航空中心主義に切り替えたのは日本海軍だった。 ※歴史学者は反日が飯の種、歴史学者は敗戦利得者、敗戦利得者は日本人魂を捨てGHQに媚びたのである。 戦後70年、左翼が嘘をついて大手を振って歩いた時代であったが、ここの来てネットが風向きを変えた。 正しい歴史、史実を発信する学者も多くなった。 日本にとっていいことであるが、史実を解き明かすのは政府の仕事、政治家は「歴史修正主義者」とレッテル張りされるのが怖いのであろう。 何も出来無い。 歴史は日本の未来、政府が史実を検証すべき重要な課題のハズである。 |
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2015・4・26 FOCUS-ASIA.COM 編集翻訳 城山俊樹 日中の兵器生産量、一体どれだけの差があったのか―中国メディア |
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「記事内容抜粋」 騰訊評論は24日、日中戦争期における日本と中国の兵器製造力を比較する文章を掲載した。 1931年の満州事変後、国民政府が日本と交渉路線をとって戦争の拡大を回避しようとした原因の1つは、当時の両国の国力に相当な差があったからだ。 34年に蒋介石は「戦争上必要な条件が不十分。対日戦遂行の可能性はない」と語ったが、確かに間違っていなかった。 ※ここでは共産党軍と言わないのだな。 ハッキリ言えよ、中華民国軍だろう。 大日本帝国は中華民国と戦い中華人民共和国と戦ってはいないのである。 大日本帝国は蒋介石と戦争をしたくなかったが、蒋介石は満州に度々奇襲をかけ多くの非戦闘員である日本の婦女子、子供まで無残な殺戮を繰り返した。 子の蛮行に大日本帝国軍人を怒らせたのである。 だが日本帝国は局地戦で応戦しながら停戦を模索していた。 蒋介石も同様である。 証拠は大日本帝国が提唱し開いた大東亜会議に蒋介石の代理が出席している。 |
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2015・4・21 ユーチューブ 重要 平成26年08月03日「大東亜戦争とアジア解放-大東亜会議の歴史的意義」講師:加瀬英明先生 |
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「コメント」 スタジオ日本・特別報道番組 第11弾 日本会議福岡 第10回 追悼・感謝 英霊顕彰・県民の集い(平成26年8月3日開催) [趣旨] 欧米の白人諸国に大きな衝撃を与えた大東亜会議 ■フーバー大統領の証言 加瀬 日米開戦時の米国大統領はフランクリン・ルーズベルトですが、彼は世界大恐慌のときに、共和党の現職フーバー大統領から政権を奪取しました。 そのフーバー大統領の回想録がつい最近アメリカで出版されました。 その中で、フーバーは日米の戦争はルーズベルトが一方的に悪かった、ルーズベルトは「狂人」だったとまで言っています。 本日の主題とは少し脱線しますので、あまり深追いせ フーバーはルーズベルトとは犬猿の仲でしたが、トルーマンとは親し そこで、彼はトルーマンに、日本は基本的にアメリカと同じ価値観を持つ国であるから日本とは早期に講和を結ぶべきだと進言します。 そして、朝鮮半島と台湾は引き続き日本領として統治させたほうがいいと言い、また、中国の共産化を防ぐために中国大陸にいる日本軍は段階的に時間をかけて撤退させるべきだとも言っています。 ところが、アメリカの軍部がこれらの提言を受け入れなかったのです。 父も日米戦争はアメリカが一方的に悪かったと信じていましたね。 ルーズベルトは日本を叩き潰そうとしていたのです。 福冨 日本の教科書では、日独伊三国同盟で松岡洋右が突っ走って、近衛文麿が日米交渉を投げ出して云々と日本にばかり非があるように書いていますが、実際には、日本はアメリカと争う気はなかった。 ルーズベルトの方が中国や欧州戦線との絡みもあって日本と戦争したかったわけです。 ルーズベルトは蒋介石政権に資金や武器を援助し、そして、最後通牒たるハル・ノートを日本に突きつけました。 開戦の詔書にあるように、やむにやまれず自存自衛のために戦ったというのが日本にとってのあの戦争の側面のひとつ。 もうひとつの側面は、有色人種に対する白色人種の植民地支配を打ち破ったということです。 本日 |
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2015・4・21 産経WEST (1/5ページ) 【歴史事件簿】 必見 パールハーバーの誤算(2) 職を賭した山本五十六の「奇襲」決断…開戦は宣戦布告30分後 綱渡りの全軍突撃命令 |
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「記事内容抜粋」 昭和16年12月、ハワイに向かう空母6隻を中心とする機動部隊に8日の開戦を命じた連合艦隊司令長官の山本五十六(いそろく)大将だが、宣戦布告から30分後の攻撃という綱渡り的なスケジュールには一抹の不安をもっていた。 「ここで手順を間違えば…」。 何度も外交手順に念を押したのは、赴任の経験を通してアメリカの力を十分に弁えていたからにほかならなかった。 そんな中、当初の予定の8日未明、広島・柱島沖に停泊中の戦艦「長門」の作戦室にハワイ攻撃機から全軍突撃命令の電波が届いた。 航空機で真珠湾を アメリカの絶縁状 宣戦布告と開戦 ※宣戦布告が遅れた原因は英訳に手間取ったと子供の頃から映画等でしっていたが、事実に反し真っ赤な嘘であったと知った時には驚いた。 日米が最も緊迫した状態の時にアメリカ大使館はもぬけの空とは陰謀としか言い様が無い。 更に驚くのは、不可解な事だが、宣戦布告に関わった官僚が戦後、出世をしているのである。 彼等は本来、逆賊である。 日本国民は大東亜戦争のアメリカ戦の宣戦布告に纏わる一部始終を知る必要がある。 |
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2015・4・19 産経WEST (1/5ページ) 【戦後70年】 最高速度で進む戦艦大和(大和ミュージアム提供)掲載 「作戦室が被弾し、一挙に57人が戦死」「主砲が火を噴くと米軍機に大穴」深海に眠る戦艦「武蔵」と「大和」について語る…戦艦大和会顧問の相原謙次氏 |
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「記事内容抜粋」 戦後70年の特別企画として3月27日に大阪市内で開催された「零戦(れいせん)と戦艦大和講演会」(産経新聞社など主催)。 大和の元乗組員や遺族らでつくる「戦艦大和会」顧問の相原謙次氏(60)が講演、今年3月、フィリピン沖で発見された戦艦「武蔵」と、現在も長崎県男女群島沖に眠る戦艦「大和」について語った。 《フィリピンのシブヤン海で3月、発見された戦艦大和の姉妹艦、武蔵。レイテ湾に出撃する艦隊や沈没時の写真などを示しながら、発見者のポール・アレン氏が公開した映像を分析した結果などを報告》 武蔵の最後は昭和19(1944)年10月、フィリピンを奪還しようとレイテ湾の島に上陸したアメリカ軍を撃退するため、ほぼ航空部隊はなくなっていたのだが、主力の水上部隊で殴り込みをかけに行った。 武蔵は、途中のシブヤン海でアメリカの機動部隊の猛攻撃を受けて沈没した。 なんと受けた魚雷は20本以上、爆弾は17つ以上。列国の戦艦であれば魚雷4本で沈むところ、10時間以上かけてようやく沈んだ。 当時の乗組員たちが耐えて耐えて耐え抜いたが、ついに10月24日午後7時35分沈没した。 ※不思議なのは、何故戦艦大和をもっと早く活用しなかったのか? 軍内部にまでコミンテルンが・・・ |
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2015・4・19 産経ニュース 恒春(台湾南部)=田中靖人 バシー海峡の戦没者慰霊式典 台湾南端の潮音寺 |
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「記事全内容」 台湾とフィリピンの間のバシー海峡で先の大戦中に戦没した将兵を慰霊する式典が18日、台湾の南端、屏東県恒春の潮音寺で営まれた。 潮音寺は1981(昭和56)年、自身も輸送船が撃沈され同海峡で生死をさまよった中嶋秀次氏=故人=が、私財と寄付金で海峡を見下ろす高台に建てた。 この日は、大阪日台交流協会の有志約20人が参列。 同協会の野口一会長は「今日の日本の平和と繁栄がバシー海峡での犠牲の上に成り立っていることを後世に伝えていく」と述べた。 同海峡では戦時中、米軍の潜水艦により多数の艦船が撃沈され、少なくとも10万人が死亡したとされる。 台湾南部の海岸にも多数の遺体が流れ着いたという。 潮音寺では8月に戦後70年の慰霊祭が行われる予定で、寺が建てられる経緯を著書「慟哭(どうこく)の海峡」にまとめた作家、門田隆将氏の講演などが企画されている。 ※日本政府は誰でもいいから慰霊式典に出席させればいいと思うのだが・・・ |
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2015・4・19 産経ニュース (1/3ページ) 【歴史戦 第10部・終わらぬプロパガンダ(2)】 「大隊長注意 略奪、惨殺禁ズ」従軍手帳メモから浮かぶ「日本軍の規律」…遺族無念「なぜ検証せぬ」 |
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「記事内容抜粋」 一部が崩れた城門、ロバにまたがりほほ笑む中国人の少年、整然とした街頭の人波…。 セピア色の数々の写真に、70年以上前の南京などの様子が克明に写し出されていた。 「日中戦争に従軍した父が持ち帰ったものです」 関西在住の元海寿祐(51)が説明する。 父、寿一(よしかず)=平成2年に72歳で死去=は昭和14年春に出征した。 写真の多くは裏に記された日付から、同年11月初旬に負傷して帰還する前に滞在した 「南京」 から持ち帰ったとみられる。 「南京城内ロータリー」と裏書きされた写真には、整然とした街角が多くの人でにぎわう様子が写っていた。 「十月二十八日」と記された写真には、寝そべる水牛とほほ笑む3人の少年や、中国服を着た7人の若い娘が並んでポーズをとっている様子が写っている。 いずれも穏やかな日常風景といったおもむきだ。 「父は南京で買い物するのが楽しかったと話していました。 だから南京事件はあり得ないとも」 |
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2015・4・19 Record China 翻訳・編集/三田 「第2次大戦は自衛戦争でもあった」日本人の約5割が回答=韓国ネット「攻め入っておいてそりゃないだろ」「韓国も日本と共に戦った」 |
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「記事内容抜粋」 2015年4月18日、韓国・聯合ニュースは、日本人の約半数が第2次世界大戦について「侵略でもあるが自己防衛のためでもある」と考えていることがわかったと報じた。 報道によると、日本のメディアが最近行った世論調査の結果、回答者の46%が第2次世界大戦を「侵略戦争と自衛戦争」の2つの性格を持つと答えた。 侵略戦争との回答は31%、自衛戦争という回答は6%、わからないという回答が15%であったという。 これを受けて報道は、「1995年の村山談話で侵略戦争であると認めたにもかかわらずこのような回答が多いのは、戦後清算、責任追及、教育などが徹底的になされなかった結果だと思われる」と分析している。 ※日本国民は今、大東亜戦争の事実を知り始めたばかりである。 もう少し時間が経てば日本国民の意識が大きく変わり、敗戦利得者も次第に姿を見せなくなるだろう。 「村山談話」、「河野談話」への非難も次第に大きくなっている。 |
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2015・4・18 産経ニュース (1/3ページ) 南の島人との交流を大切に 佐野慎輔 |
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「記事内容抜粋」 ある拍子に蘇(よみがえ)る記憶がある。 天皇、皇后両陛下が先ごろ、西太平洋のパラオ共和国を訪問されたときのことだ。 両陛下は最大の激戦地ペリリュー島の南端に立たれ、鎮魂の思いを込めて黙祷(もくとう)された。 蒼(あお)い空と海が広がっていた。 紙面に見入るうち、タラワの海を思い出した。 もう15年も前になる。 太平洋の赤道上にハンマーのような形で広がるキリバスを訪ねた。 首都タラワの海際に、幾門もの大砲が南太平洋をにらんでいた。 第二次世界大戦、南下した日本軍はパプアニューギニアからソロモンを攻め、オーストラリア北部のダーウィン、シドニーを攻撃した。 そしてキリバスに転じ、タラワで玉砕。 多くの犠牲がでた。 大砲群にほど近い林にコンクリート造りの司令部跡があった。 「全然、風化していない。角が面取りされるなど、丁寧に造られている。非常時なのにここまでやった、すごい技術だ」。同行のJICA(当時・国際協力事業団、現・国際協力機構)職員の感嘆に地元の案内人がうなずいた。 ※文中に南の島々に援助の手をとあるが同感である。 シナや韓国に無駄な国費を費やし裏切られるより、南の小さな国々が今の日本を精神的に支えてくれている事を無視してはならず、積極的に恩返しをすべきである。 |
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2015・4・18 産経新聞 ケネディ大使、平和大通りにハナミズキ植樹 原爆資料館も見学 |
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「記事内容抜粋」 キャロライン・ケネディ駐日米大使が17日、広島市を訪れ、平和記念公園(広島市中区)の原爆慰霊碑に献花、就任後としては初めて原爆資料館を見学した後、日米友好の木・ハナミズキを平和大通りに植樹した。 ケネディ大使は原爆資料館で、原爆投下で廃虚と化した広島の写真や焼けただれた動員学徒の衣服といった被爆資料に見入り、広島平和文化センターの小溝泰義理事長の説明に熱心に耳を傾けた。 原爆資料館の芳名録には「ここを訪れるすべての人々は、問題を抱えるこの世界において平和のために尽力する決意を新たにすべきだ」などと記帳した。 この後、平和記念公園に面した平和大通りの緑地帯で、松井一実市長らとともに、高さ2メートルほどの米国からのハナミズキのを植樹した。 植樹は、大正元(1912)年に日本から米国に3千本のサクラを贈った関係で実施。 日米共同事業として植樹100年を記念した植樹が行われており、平和大通りには被爆70年にちなんで70本植樹される。 大使はその後、広島大学(広島市南区)で「留学の重要性とグローバル人材」をテーマに学生らと意見交換。 夜はマツダスタジアムで、広島東洋カープ-中日ドラゴンズ戦の始球式に臨んだ。 |
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2015・4・17 産経WEST 暗号解読が勝敗を決した(4月17日) |
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「記事全内容」 話題の映画「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」は、第二次世界大戦中、解読不可能とされたドイツ軍の暗号「エニグマ」に挑んだアラン・チューリングの数奇な生涯を描いている。 その理論はコンピューターの誕生に重要な役割を果たしたが、長く無名の存在だった。 ▼エニグマの解読によって戦争終結は2年以上も早まったとされる。 しかし、解読成功を敵に知られると暗号を変えられてしまうため、チューリングの業績は 「軍事機密」 として伏せられたのだ。 さらには当時は違法だった同性愛者として有罪になり、不遇のうちに亡くなった。 非情な戦争の舞台裏である。 ▼暗号の開発と解読は熾(し)烈(れつ)な情報戦で、勝敗の帰(き)趨(すう)を決める。 太平洋戦争でもそうだった。 日本軍の暗号を解読した米軍が、前線を視察する山本五十六連合艦隊司令長官の予定をキャッチし、ブーゲンビル島上空で搭乗機を待ち伏せして撃墜した。 昭和18(1943)年4月18日である。 ※産経グループまでもが大東亜戦争の一部であるアメリカ戦を太平洋戦争と記す。 何故か? 何か意図があるのか? 史実は違うだろう。 日本の史実は満州事変以降、終戦までを大東亜戦争と帝国議会で定めている。 |
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2015・4 IRONNA 日中戦争(シナ事変)の真犯人 |
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「記事内容抜粋」 戦後70年が経っても「侵略国家」との烙印を押されたままの日本。 近年では対米英戦を「侵略戦争」だと主張する向きは少なくなったが中国大陸は「日本が侵略した」との考えが今なお根強い。 だが、日本は本当に中国侵略を望んでいたのだろうか。 小島新一のズバリ正論 東アジアを赤化する 7月7日といえば… 「当事者」が重大証言 泥沼に引きずり込まれる 対日賠償はいつまで続く 関連記事 日本は中国侵略を望んでいたと思いますか? ※大日本帝国はシナから誘導された結果であり、自ら進んでシナ大陸に手を出した訳では無い。 日本人の素直さが、白人とシナ人の悪巧みに引っかかった結果である。 それが大東亜戦争の始まりとアメリカ戦の始まり、東京国際軍事裁判である。 日本人のいい所でもあるのだが、白人やシナ人の様な強かさ無い。 例を上げば、敗戦後、毛沢東の共産党に寝返り航空部隊を編成したり、航空学校まで建設し、シナ人を指導し、シナ空軍の祖を築いた。 満州国境付近に残った大日本帝国・軍人が朝鮮人と共に新たに第二の日本を建国しようと利用された。 戦後の日本の左翼、反日日本人が彼等と同類であろう。 日本人は、一旦挫けると立ち直りがなかなか出来無い輩が多い気がする。 |
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2015・4・13 産経ニュース 編集委員 宮本雅史 【戦後70年】 戦後70年~特攻 大注目記事 特攻(8)人間魚雷「回天」隊員が遺した「2分半の肉声」…円盤に刻まれた感謝と日本人の心 |
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「記事内容抜粋」 「父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして長い間、僕を育んでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう…略…愉快にいつまでも暮らしたい。けんかしたり争ったりしても、心の中ではいつでも手を握り合って。しかし、僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ」 「日本人、日本人、自分の血の中には3千年の間、受け継がれてきた先祖の息吹が脈打っているんだ…略…齢(よわい)長(た)けし人々よ。われら亡き後の守りに、大東亜の建設に、白髪を染め、齢を天に返して、健闘せられよ。また幼き者よ。われらのしかばねを踏み越え、銃剣を閃(ひらめ)かし、日本旗を翻して前進せよ…略…永遠に栄あれ、祖国日本」 人間魚雷「回天」の金剛隊員として昭和20年1月21日、ウルシー湾で特攻を敢行し、戦死した塚本太郎少尉=当時(21)、戦死後大尉=は自らの声を2分半にわたって円盤に残していた。 中略 ▼連載を終えて 多くの特攻隊員は遺書などで、感謝とともに「後に続くを信ず」と書き残している。 この言葉を最初に言い残したのは、ガダルカナル島で戦死した第38師団歩兵第228連隊の若林東一中隊長といわれる。 死が間近に迫った瞬間、若林中隊長は何を思ったのか。 勝つまで戦争の続行を信じるという意味なのか、それとも、日本の歴史と文化、精神を守ることや日本の復興を託したのか。 特攻隊員たちの最後の言葉をみると、「将来を託す」強い思いが伝わってくる。 筆者が触れることができた特攻隊員や遺族の言葉はほんの一部にすぎない。 だが、自らの命を差し出すことで、家族を、愛する者を、日本を守るという逃げ場のない自己犠牲の精神を感じざるを得ない。 想像を絶する苦悩を克服し、肉親との恩愛を振り切って、従容(しょうよう)な態度で出撃したのである。 特攻を美化するあまり、特攻隊の誠に気付かず、彼らの心情や「将来を託す」思いを見過ごしてしまうことを恐れる。 ※先ず、産経新聞に協力して頂いた遺族の方々と宮本記者に感謝する。 日本の左翼よ、政治家を含む全ての反日日本人よ、反日を全ての市民団体よ この記事を読め! これが大東亜戦争を戦った日本人の純粋な気持ちであり、今を生きる日本人への肉声の遺言である。 日本を貶める全ての日本人よ、この思いにどう答えるのだ! 反論をして見ろよ。 |
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2015・4・12 産経ニュース 編集委員 宮本雅史 【戦後70年】 【戦後70年~特攻】 特攻(7)遺族は問う「国のため逝きたる御霊は安らけきか」 |
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「記事内容抜粋」 昨年10月25日、愛媛県西条市の楢本神社で「神風(しんぷう)特攻敷島隊並びに愛媛県特攻戦没者追悼式典」が開かれた。 敷島隊は昭和19年10月20日、フィリピンのマバラカット基地で海軍兵学校70期の関行男大尉=当時(23)、戦死後中佐=を指揮官に5人で編成され、25日にレイテ沖海戦で敵空母群に突撃、護衛空母セント・ローを撃沈するなど大きな戦果を挙げた。 式典は敷島隊をはじめ、愛媛県出身の特攻戦没者を慰霊、顕彰するのが目的で、全国から遺族らが参列した。 式典には連載4回目で紹介した曽我部隆(たかし)二飛曹=当時(19)=の弟、勲さん(84)も参列し、遺族代表としてこう訴えた。 「血潮たぎる若者が祖国を守らんと志願し、靖国神社で会おうを合言葉に陸、海軍合わせ240万人にも上る同胞が国難に殉じましたが、その御霊(みたま)は今、靖国神社で安らかに鎮まっているのでしょうか。皇室をはじめ歴代総理大臣も公式参拝すらできないのです。これが独立国日本の姿でしょうか。私は尋ねたい。『国のため逝きたる御霊は安らけきか』と」 中略 × × 現在の教育には注文が多い。 「今の子供には自分さえ良ければいいという利己主義が蔓延している。教育がゆがんでいるのかもしれない。教師は素晴らしい子供に成長させるという意欲、方向性が見つからない状態になっている」 「人間関係のぬくもりがないし、日本人の伝統的な国民性が失われてしまっている。寂しい思いでいっぱいだ」 若い後輩たちにはこう言い続けてきた。 「君も立派な先生なんだ。立派な先生がいいかげんな頼りないことではいけない。自分が正しいと思うことははっきり口に出して、親に理解を求める、親に言わなければならないと」() ※同意! 情けない日本の左翼や親シナ派、親韓派の政治家、単なる反日政治家、反日日本人は日本に嘘の歴史を持ち込んだ。 靖国神社に眠る英霊達は、嘆き日本の未来が心配で、未だ安らかに眠りにつく事が出来無いだろう。 |
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2015・4・12 朝日新聞デジタル バターン死の行進を再現 平和願う催しに国境超え2千人 |
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「記事内容抜粋」 第2次世界大戦中の1942年、フィリピン北部バターン半島で旧日本軍の捕虜となった米比の兵士らが収容所までの長い距離を歩かされたとされる「死の行進」の一部を再現するイベントが11日、行進の終着地カパスであった。 「平和を考える機会に」と初めて催された。 午前5時。地元住民や米比の兵士ら計約2千人が歩き出した。 目指すは10・5キロ先の国立祈念堂。 73年前の「行進」で終着地とされた捕虜収容所があった場所だ。 ルート脇には1キロごとに「死の行進」の碑が立つ。 参加者は、炎天だったという当時の過酷さに思いをはせながら約3時間で歩ききった。 主催者(国防省など)が配った文書には「42年4月9日、日本に捕らえられた米比の9万~10万人が88キロと13キロを歩かされ、7千~1万人が死亡した」とある。 距離や人数、事実の一部は資料や見解によって異なるが、死の行進は広く語り継がれている。 ※アメリカが作り出したフィリピンの嘘だが、この嘘を生み出す捏造朝日新聞社が報じるとは呆れた。 |
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2015・4・10 産経WEST (1/4ページ) 園田和洋 パールハーバーの誤算(1) 日米はなぜ開戦に至ったのか…米も欲した満鉄利権、確執は満州での“すれ違い”から始まった |
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「記事内容抜粋」 今から74年前の昭和16年12月8日、旧日本軍はハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を攻撃し、太平洋を舞台にしたアメリカとの戦いに突入する。 当時、アメリカの生産力が日本の10~20倍もあったため日本の軍部の中にも対米戦に消極的な声もあったのだが、なぜ踏み切らなければならなかったのか。 その原因は、真珠湾攻撃の36年前に日露戦争の講和を仲介したアメリカとのすれ違いから始まっていた。 ターゲットは満州 対立深める日米 ニイタカヤマノボレ 当時の世相映した国策映画「潜水艦1号」 ※アメリカの極々一部の人間だが、こ奴等が裏に潜みアメリカ大統領を動かし、今も同じ手口で世界を混乱させているのである。 アメリカは民主主義とは名ばかりの愚かな国である。 こう言う国が世界を覆っているとは情けない。 シナが謀略三昧のアメリカに挑戦しようとする気持ちが分か無くも無い。 |
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2015・4・10 産経WEST (1/4ページ) 【戦後70年・回想録(下)】 「よっしゃ、これでグラマンに勝てる」零戦・紫電改パイロットが語る…心に焼き付く記憶 |
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「記事内容抜粋」 戦後70年の特別企画として、3月27日に大阪市北区の市中央公会堂で開かれた「零戦(れいせん)と戦艦大和講演会」(産経新聞社など主催)。 帝国海軍の戦闘機「零戦」と「紫電改」のパイロットだった笠井智一さん(89)=兵庫県伊丹市=が講演し、戦争体験者や遺族ら約850人が聞き入った。 司会: 引き続き、空中戦のことを詳しく聞かせてください 司会: 昭和19年10月27日に神風特別攻撃隊忠勇隊の直掩隊(ちょくえんたい)(護衛部隊)として、特攻の護衛をしていた際の話を 司会: その後内地へ戻り、零戦の後継機の紫電改に搭乗するが、その性能はどうか 司会: 最後に、伊勢神宮外宮にある「国旗の詩」と、これからの日本への思いを ※大日本帝国は、アメリカの醜い経済制裁により、大東亜戦争へ突入したのだが、時の事情がハッキリと窺える記事である。 |
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2015・4・10 産経ニュース (1/3ページ) 特攻(5)九九式襲撃機別れの旋回、妻はうずくまった…「特攻の美化、たまらなく不安」 |
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「記事内容抜粋」 九九式襲撃機が突然、飛来した。 昭和20年3月27日午前8時半ごろ、埼玉県桶川町(現桶川市)の上空。襲撃機は高度を下げると、1軒の民家の屋根と接触しそうなほどの低空飛行で3回旋回した。 風防ガラスを開け、手を振る操縦士の姿があった。 その後、別れを告げるように翼を左右に振ると、西の空に消えた。 操縦桿(かん)を握っていたのは、5日後の4月1日に第23振武(しんぶ)隊の隊長として鹿児島県の知覧飛行場を出撃し、沖縄近海で戦死した伍井芳夫大尉=当時(32)、戦死後中佐=だった。 |
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2015・4・9 産経WEST (1/4ページ) 「敵に30メートル接近して撃て」零戦・紫電改パイロットが語る…心に焼き付く記憶 |
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「記事内容抜粋」 戦後70年の特別企画「零戦(れいせん)と戦艦大和講演会」(産経新聞社など主催)が3月27日、大阪市北区の市中央公会堂で開かれた。 米英から恐れられた日本帝国海軍が誇る戦闘機「零戦」と「紫電改」のパイロット、笠井智一さん(89)=兵庫県伊丹市=が講演。 戦争体験者や遺族ら約850人が、時折涙を流しながら真剣に聞き入った。 2回にわたって笠井さんの講演内容を紹介する。 司会: 予科練を志願した動機は と記事が続いている。 |
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2015・4・9 産経ニュース (1/7ページ) 【戦後70年】 特攻(4)敗戦「軍神」一転「クソダワケ」…特攻隊員の親兄弟は泣いた「誰のために逝ったのか」 |
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「記事内容抜粋」 昭和20年4月15日の朝、新聞を読んでいた岐阜県川辺町の岩井伴一さんは、突然立ち上がり、叫んだ。 「遅かった、遅かった。サダが逝っちまった」 悲鳴は家中に響いた。 この日の新聞に特攻隊の出撃を報じる記事が載り、その中に次男の定好(さだよし)伍長=当時(19)、戦死後少尉=の名前があった。 陸軍少年飛行兵で、第103振武(しんぶ)隊員として2日前、鹿児島県の知覧飛行場から出撃し、沖縄海域で特攻を敢行した。 岩井家では長男の千代司さんが18年3月5日、ソロモン諸島で戦死していた。 伴一さんは妻のよしゑさんの気持ちを慮(おもんぱか)り、戦死公報がくるまで内緒にしようと新聞をその場で燃やした。 坂口安吾のエッセー、GHQが掲載禁止 中略 元特攻隊員自身が、死を恐れながらも出撃を待ち望む、相反する心中を描いている作品も多い。 一方で、特攻隊を自己犠牲の象徴として美化し、感傷的に仕上げた作品も少なくない。 ※特攻隊は史実、日本民族の心の中に潜む自己犠牲の神髄、日本民族が自己犠牲の精神を無くせば、日本国は滅びるだろう。 日本国が続く限り、特攻隊の存在は語り継がれて行くであろう。 |
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2015・4・8 サーチナ 編集担当:如月隼人 「抗日ドラマは大嫌いだ」と中国軍元兵士・・・日本軍と戦った証言者!=中国メディア |
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「記事内容抜粋」 浙江省の有力紙「今日早報」は7日、「抗日戦の老兵を取材。 最も嫌いなのは抗日“神劇”」と題する記事を掲載した。 抗日戦を戦った89-93歳の元兵士の証言として、当時の戦いがいかに苦しかったかを紹介し、彼らは安直に作られる「抗日ドラマ」に強い反感を持っていると伝えた。 取材を受けたのは、共産党系で旧満州などで日本軍や満洲軍と戦った東北抗日聯軍の元兵士の黄開仁さん(93歳)、国民党兵士として四川省方面で戦った川軍元兵士の盧彩文さん(90歳)、国民党が英軍支援にためにビルマに派遣した中国遠征軍元兵士の李文仲さん(90歳)、共産党軍である八路軍元兵士の張殿国さん(89歳)らだ。 中略 ********** ◆解説◆ 上記記事には不自然な面もある。 元兵士による「過酷な従軍生活」についての証言は発言者名を明記しているのに、「最も嫌いなのは抗日“神劇”」との発言には明確な主語がないことだ。 “神劇”批判は見出しにもあり、同論説の主要な主張と考えられる。 「真実の戦争体験」を持つ元兵士が、安直に制作される「抗日神劇」を毛嫌いすることは不自然ではないが、上記論説は「結論ありきの取材記事」だった可能性がある。 ただしその場合、上記論説は 「抗日神劇」 に批判的である。 当局上層部の意向を反映したものと、読み取ることができる。 ※八路軍の名も上げられているが、戦いの様子が殆ど語られておらず、大日本帝国軍とたいした戦闘をしていないと言う事だろう。 |
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2015・4・8 産経ニュース (1/6ページ) 関野通夫氏 【月刊正論】 大注目 これが戦後の元凶だ! 米占領軍の日本洗脳工作「WGIP」文書、ついに発掘 |
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「記事内容抜粋」 WGIP(War Guilt Information Program)とは、大東亜戦争後の昭和20(1945)年からサンフランシスコ講和条約発効によって日本が主権回復を果たした昭和27年までの7年間の占領期間に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領政策として行った、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつける宣伝計画です。 はじめに何故、私がWGIPを取りあげたのか、という理由から述べます。 WGIPが行われたのは今から約65年前ですが、決して過去の話ではありません。 むしろ今でも効き目を発揮し、ますます毒性が強まっている、いわば現在進行中の話なのです。 WGIPが残した毒は、政、財、官、法律、教育等あらゆる分野で、今も枢要の地位を占める人を含む、多くの日本人の思考を今も縛っています。 最近も、戦後70年の首相談話を検討する「21世紀を構想する有識者懇談会」の北岡伸一座長代理が、「総理に侵略だといわせたい」などと、およそ信じがたい発言をされました。 自民党の三役の一人が、「慰安婦問題は終わっていない」などと、歴史事実を知りもせず、韓国に媚びた発言をする光景には、あきれ返るばかりです。 普通の国では起こりえない、自虐的な発想や、非常識な外交対応などが頻発する背景には教育などさまざまな要因があるでしょう。 ですがその源流はWGIPによる洗脳にほかなりません。 そしてその洗脳から日本人は解放されていないのです。 中略 今や一部では存在すら危ぶまれているのです。現資料が紛れもなく存在することを世の中に示したい。それがWGIPの文書を探し始めた大きな理由でした。 ピンポイントで文書を特定する困難 日本人洗脳工作の構図 WGIPとは何か つづく ※歴史は歴史学者よりも理工系の頭脳の持ち主の方が理路整然と史実を紐解けるようである。 |
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2015・4 IRONNA 栄光なき戦艦大和になぜ惹かれるのか |
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「記事内容抜粋」 「不沈艦」と謳われ、当時世界最大を誇った戦艦大和が、東シナ海に散ったのは70年前の4月7日だった。 その名の通り、旧日本海軍の象徴的存在だったとはいえ、目立った戦果はなかったことでも知られる。 なぜ人々はこの栄光なき巨大戦艦に惹かれるのか。 日本を取り戻す原風景 使われなかった名刀 「死者」不在の戦後教育 大和の語り部 最後の出撃 あなたは戦艦大和のどこに惹かれますか? ※戦艦大和、やまとの国、大日本帝国に相応しい巨大戦艦としての名前だろう。 大日本帝国は、のこのこオーストラリアまで行かず、フィリピン辺りでアメリカ軍を待ち、大和を使えば勝てた可能性もあったと思うのだが・・・ |
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2015・4・7 産経ニュース (1/4ページ) ペリリュー島 今村義丈 【「忘れえぬ島」パラオ~遺族・戦友の戦後70年】 (中)両陛下ご訪問を前に壕開く 遺骨収集加速に高まる期待 |
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「記事内容抜粋」 「これは、大腿骨(だいたいこつ)のご遺骨では」。 6日(日本時間同)、パラオ共和国・ペリリュー島のジャングルを歩いていた「水戸二連隊ペリリュー島慰霊会」事務局長、影山幸雄さん(70)は、一見すると枯れ枝のように見える遺骨を見つけ、思わずつぶやいた。 先の大戦で日本軍守備隊約1万人が米軍に徹底抗戦の末にほぼ全滅したペリリュー島。影山さんは、9日に同島で戦没者を慰霊される天皇、皇后両陛下を出迎える遺族を戦跡へ案内するため訪島していた。 遺骨収集に長年携わり、パラオ入りは34度目。 今回もその足は自然と、日本軍陣地の壕の周辺に向いていた。 |
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2015・4・7 産経ニュース (1/4ページ) 【戦後70年】 特攻(2)「父に幸福な生活、母に愉快な生活をなしていただくべく戦うこと」特攻の命が下った日、予備学生は書いた |
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「記事内容抜粋」 「特攻隊名簿に自分の名前を見たときは、顔面蒼白(そうはく)になったと思う。覚悟はしていたが、全身の血が逆流したような気持ちがした」 こう振り返るのは川崎市の元特攻隊員、江名武彦さん(90)だ。 神風(しんぷう)特別攻撃隊正気隊の隊員として昭和20年4月28日と5月1日の2回、鹿児島県の串良(くしら)飛行場から出撃し、不時着などで帰還した。 江名さんは18年10月、早稲田大から学徒出陣し、海軍飛行14期予備学生として訓練を受けた。 |
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2015・4・7 産経ニュース (1/5ページ) 【正論】 必読 ペリリュー英霊が問う戦後精神 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司 |
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「記事内容抜粋」 8日から天皇、皇后両陛下がパラオ共和国を訪問され、大東亜戦争の激戦地ペリリュー島で戦没者を慰霊される。 これは、戦後70年の今年における最深の行事といえるであろう。 最深というのは、忙しさの中に埋没している日常的な時間を切り裂いて、歴史の魂に思いを致らし、日本人の精神を粛然たらしめるものだからである。 《「海ゆかば」を知らない日本人》 《日本が失ったものの大きさ》 《両陛下の慰霊に合わせ黙祷を》 中略 追悼式で「海ゆかば」が流れたならば、遙かに水平線の彼方のペリリュー島から英霊は黒く浮び上って今日の日本人を眺めるであろう。 そして、われわれはその視線に戦後の精神の在り方を厳しく問われることになるのではないか。 ※日本人民族は、靖国に眠る英霊達が残してくれた大きな重たい志を忘れず、自ら大和魂を呼び覚ませ! 日本人は大和魂を失ったまま、あの世に赴き、国を守ろうと一命を賭し戦い散った多くの英霊と先祖に申し開きが出来るのだろうか? |
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2015・4・6 産経ニュース (1/3ページ) ペリリュー島 今村義丈 【「忘れえぬ島」パラオ~遺族・戦友の戦後70年】 (上)慰霊引き継ぐ「墓守」 碑建立40年「きれいなまま」 |
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「記事内容抜粋」 先の大戦で日米の激戦地となったパラオ共和国ペリリュー島。5日、11年ぶりに同島入りした村井正巳さん(79)=盛岡市=は、同島守備隊の英霊がまつられた慰霊碑「みたま」などが建つ北部の共同墓苑(ぼえん)で静かに手を合わせた。 5年前にがんの手術を受けたが、天皇、皇后両陛下のご慰問を知って駆けつけた。 「おやじも涙を流すでしょう」。 補給を絶たれつつも奮戦した陸軍少将の父、権治郎さんを思い、「碑に故郷の水」 をかけ、好物の南部せんべいを供えた。 |
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2015・4・6 産経ニュース (1/7ページ) 【戦後70年】 特攻(1)少年兵5人「出撃2時間前」の静かな笑顔…「チロ、大きくなれ」それぞれが生への執着を絶った |
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「記事内容抜粋」 特攻隊に少しでも関心を持った人なら、一度は目にしたであろう1枚の写真がある。 子犬を抱いた少年兵を囲み、4人の若者がほほ笑んでいる。 飛行服に飛行帽、白いマフラーを巻き、首から飛行時計をぶら下げている。 飛行帽の上には「必勝」と書かれた日の丸の鉢巻きも見える。 真ん中で子犬を抱いているのが荒木幸雄伍長で、その真後ろにいるのが高橋峯好伍長。 ともに17歳だった。 ほかの3人はいずれも18歳の早川勉伍長、千田孝正伍長、高橋要伍長。 5人は陸軍少年飛行兵(戦死後少尉)。 第72振武(しんぶ)隊員として、沖縄に押し寄せていた米艦隊を撃滅するため、昭和20年5月27日未明、鹿児島県の万世飛行場を出撃し、沖縄近海で特攻を敢行した。 |
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2015・4・6 朝鮮日報 (朝鮮日報日本語版) 戦後70年の懺悔、隠せなかった九州大生体解剖事件 (ヤフーニュース記事) 九州大、米軍捕虜人体実験を反省 関連記事(朝鮮日報日本語版) |
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「記事内容抜粋」 ヤフーニュース記事から 日本軍は「米軍が日本本土に上陸する状況に備えなければならない」とし、「人体と成分が似ている海水を使い、血液の代替物を作れ」と圧力をかけていたという。 日本の報道によれば、九州大の医療陣が米軍捕虜の肺を摘出したり、血管に海水を注入したりしていたのもそのためだったという。 今回の事件に対する断罪はうやむやになっていた。 連合軍の軍事法廷は事件の真相を調査した後、医療陣23人に有罪判決を下した。 特に5人には死刑を宣告した。 しかし、その後6・25戦争(朝鮮戦争)が起きた。 米軍は当初、日本を徹底的に処罰しようとした。 しかし、6・25戦争で日本を兵站(へいたん)として活用しようとした米軍の意向により、日本降伏後に取られていた政治的、経済的な統制は大幅に緩和された。 その過程で生体解剖を主導して死刑になった主犯のうち獄中自殺した1人を除き全員が赦免された。 このため、あえて反省を必要としない社会のムードが出来上がった。 戦後の日本文学の巨匠、遠藤周作(1923-96)はこの事件を素材として小説「海と毒薬」を書いた。 遠藤は作品中の人物の口を借り、日本社会にこう問いかけた。 「ぼくはあなた達にもききたい。あなた達もやはり、ぼくと同じように一皮むけば、他人の死、他人の苦しみに無感動なのだろうか。多少の悪ならば社会から罰せられない以上はそれほどの後めたさ、恥しさもなく今日まで通してきたのだろうか」 中略 医学部の教授会は先月、医学歴史館の開館を契機として、負の歴史も公表すべきだという意見が出た。 九州大医学部同窓会医学歴史館建設実行委員会の原寛委員長は毎日新聞のインタビューに対し、「事件の資料を展示することについては、同窓会内部に反対はなかった」と述べた。 九州大は8日から歴史館を一般に公開する計画だ。 ※反日の毎日新聞が登場、嘘つき朝鮮日報の記事だが何処までが事実なのか、戦争末期、日本に物資が枯渇していた時代の出来事、調査したいものである。 |
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2015・4・6 読売新聞 家族思う言葉ちりばめ…大和乗組員の手紙40通 |
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「記事内容抜粋」 太平洋戦争末期、戦艦「大和」が米軍の攻撃を受けて鹿児島県沖に沈没してから、7日で70年となる。 戦死した乗組員は3056人。 このうちの一人が、海軍軍人として家族に宛てた40通ほどの手紙が、東京都江戸川区の親類宅に残る。 「兄姉ご一同も変わったことはないでしょうか」。 文面には家族への気遣いと、死が避けがたい戦闘を前にしての覚悟がにじみ出ている。 無骨な男ですが、女性に対して関心は持たなかった事でもなかった。 皆がこれと決めてくれたら、(妻を)よろこんでもらうつもりでおります(記述は読みやすくした。以下、同じ) 宇田川秋三郎(あきさぶろう)さんは、26歳だった1945年(昭和20年)春頃に出したとみられる長兄への手紙に、そう記した。 戦況は悪化し、日本は追い詰められていた。 同年4月6日、大和は沖縄に上陸した米軍を攻撃するため、瀬戸内海を出発した。帰還するあてのない特攻だった。 江戸川区の農家の三男に生まれ、20歳で海軍入りした秋三郎さんに、両親と7人いる兄姉妹は縁談を勧めた。 手紙はそれに対する返事だが、訪れる運命を予感したように、こうも書いてあった。 軍人故(ゆえ)に時機がないというのでしたら、私には一生良い時機はないと思います 投函(とうかん)時期が不明な手紙には、厳しい戦いへの思いをしたためた一文もある。 ※これらは英霊の生の声である。 大日本帝国が戦った大東亜戦争は自衛戦争の証であろう。 今の日本人は英霊に感謝しろ! |
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2015・4・6 毎日新聞 樋口岳大 <原子力「災難」>目前に模擬原爆落下 今は原発訴訟原告 |
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「記事内容抜粋」 原爆投下の訓練のため、米軍は70年前、長崎原爆と同じ形状の「模擬原爆」を日本各地に投下した。 福島市でそのうちの1発に遭遇した木戸大治(だいじ)さん(74)=福島県国見町=が、3月に発行された福島第1原発事故を巡る集団訴訟の原告団証言集に体験を寄せた。 1945年7月20日午前8時半ごろ、木戸さんは兄2人と共に自宅近くの井戸で水くみをしていた時、強い衝撃を感じた。「突然、ズシーンという重低音と共に顔面と頭に砂みたいなものが当たった」。 木戸さんがいたのは模擬原爆の投下地点から約400メートル。 別の場所で農作業をしていた14歳の少年が死亡した。 模擬原爆は長崎に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」(直径約1・5メートル、長さ約3・3メートル、重さ約4・5トン)と同じ形状で、通常の爆薬が詰められていた。 カボチャに似た色や形から通称「パンプキン」と呼ばれた。 45年7月20日~8月14日、全国に計49発投下され、400人以上が犠牲になったとされる。 当時5歳だった木戸さんは模擬原爆とは知らなかったが、東京の印刷会社を定年退職して帰郷後の十数年前、福島市であった模擬原爆の破片などの展示を見て、記憶がよみがえった。 その後、模擬原爆の経緯などが詳細に記された地元紙の記事を見て、「自分が遭ったのは模擬原爆だった」と確信したという。 木戸さんの自宅は福島第1原発から約65キロ。定年後は義兄の桃栽培を手伝っていたが、原発事故後は桃が売れなくなった。 義兄は栽培を断念し、270本あった桃の木を全て切り倒してしまった。 木戸さんは、約3900人が国と東京電力に原状回復と損害賠償を求めた「生業(なりわい)訴訟」の原告となり、かつて長崎で被爆者らを取材した元NHKディレクターの根本仁さん(67)の呼び掛けに応じ、証言を寄せた。 模擬原爆を使った訓練を経て、米軍は広島、長崎に原爆を投下した。 その66年後に起きた福島の原発事故。 木戸さんは「爆弾であろうが、原発だろうが、核という根っこは同じだ」と憤り「原発は全部なくしてほしい」と訴える。 証言集第3集は木戸さんら原告19人の証言を収録している。 1部500円(送料別)。 希望者は根本さん(024・558・0517)。 ※この記事、親シナ・親韓国の新聞社が反米を煽っているのか? 毎日新聞報道が気がかりである。 |
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2015・4・2 読売新聞 モスクワ=緒方賢一 北朝鮮で抑留死869人名簿…露の公文書館保管 |
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「記事内容抜粋」 第2次世界大戦後、旧ソ連が現在の北朝鮮に開いた「第53送還収容所」で死亡した日本人抑留者869人の名簿が、ロシアに残されていたことが分かった。 名簿には死因のほか、遺体の埋葬日、埋葬場所などが記されている。 ソ連政府が作成した北朝鮮抑留死亡者名簿が明らかになるのは初めて。 朝鮮半島での抑留の実態や死者の最期を知る貴重な手がかりとなりそうだ。 第53送還収容所は、ソ連が戦後、朝鮮半島北部の興南(現在の北朝鮮・咸興市興南地区)に設置、1947年4月にソ連領内のナホトカに移設された。 死亡者名簿はソ連閣僚会議(政府)の送還業務全権代表部が作成し、ロシア連邦国立公文書館(モスクワ)が保管してきた。 同公文書館はこのほど、46年11月20日から48年5月25日までの死亡者名簿や収容者の調書など167枚を、読売新聞に開示した。 ※ソ連は日本人兵士を大虐殺したのか? 北朝鮮は恩を忘れ大日本帝国の捕虜を何故、日本に返さ無かったのか? 日本政府は知らなかったのか? 北の朝鮮人は今もぬくぬくと日本で在日として暮しているのだが・・・この差は何なのだ! 在日よ、祖国に変わり捕虜の日本人家族に謝罪位しろよ。 戦後、直後の大日本帝国軍人の動向に不可解な点が多い。 大日本帝国の敗残兵は、シナ共産党に加担したり、金日成に加担したり、同じ地域に居ながら北朝鮮捕虜収容所に送られたり、シベリアに抑留されたりと様々である。 この差はなんなのだ! |
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